ジブリ作品の中で賛否両論があるのが、「ゲド戦記」です。
批判的な意見が多いのが、アレンが父を殺害するシーンですね。その必然性が理解しにくいという意見が少なくありません。
ジブリ作品の「ゲド戦記」でアレンが父を殺した理由は何だったのでしょうか?
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父親殺しはアニメオリジナル!原作のアレンはこんな青年だった
父殺しというは、ジブリ作品のオリジナルです。原作にはありません。
ジブリ作品「ゲド戦記」は、原作の第3巻「さいはての島へ」が主なベースにされています。
原作では、アレンは父親の命を受けて、ロークの魔法学院に国許の異変を伝えるためにやって来ます。ロークの魔法学院は、世界の均衡を保つために重要な役割を果たしており、ハイタカが学院長を務めていました。
ハイタカは、エンラッドから魔法の力が失われてきた事を知り、アレンと共に原因を究明し、問題を解決するために、旅に出ます。
アレンは、経験こそ浅いものの、特別な運命を持った少年であると、ハイタカは見抜いていたのです。
長い旅の末、ハイタカとアレンは、さいはての島にたどり着きます。
そこには、生と死を隔てる石垣がありました。この石垣こそが、竜と人を隔てるものでした。この石垣にクモが穴を開けてしまったのです。世界の異変は、石垣に穴が開いたために引き起こされました。
ハイタカとアレンは、協力してクモと戦い、死の世界へと足を踏み入れ、クモを倒しました。
ハイタカは、自分の持てる全ての魔力を使って、死の国から石垣の穴を閉じました。
魔力を失い、力尽きたハイタカを、アレンが連れ出し、生の国に帰還しました。死の国から帰還した者として、アレンは、古くからの予言に従い、世界の王となる事になったのです。
全部を原作に書かれたままやっても面白くない⁉︎アレンに現代社会のリアルを投影させようとした
原作との距離の取り方について、宮崎吾朗監督は、『ゲドを読む』という小冊子の中で、「最後に死者の国に行くんですが、全部を原作に書かれたままやっても面白くないと思ったんです。」と述べています。
宮崎吾朗監督が一番違和感を感じたのは、アレン像だったようです。同じ小冊子の中で、宮崎吾朗監督は次のように述べています。
「原作にあるような少年像を描いてしまうと、下手をすればただの能天気なキャラクターになってしまう。そういう少年が突然死に対して怖がってみたりということにしかならないと感じたのです。結局、僕が感じた今の子供たちというものにアレンを置き換えないと、物語の最後まで辿り着くことはできないだろうと。」
宮崎吾朗監督は、自分が考える現代社会のリアルを、アレンに投影させようとしたと言えます。
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死に近づいた事がある特別な運命を持った少年!アレンに現代的な意味を付与しようとした⁉︎
原作のアレンは、死の国に足を踏み入れ、生の国に帰還した事で、特別な役割を担う事になります。ハイタカは、魔法使いとして、その将来を予見し、特別な運命を担う子供としてアレンと旅に出る事にします。
そのような設定を、「能天気なキャラクターに」してしまわないよう、現代的な苦悩に置き換えたのが、父殺しだったのかもしれません。
父親殺しというモチーフは、スタッフに言われたと、宮崎吾朗監督は『ゲドを読む』の中で述べています。そう言われて「腑に落ちたところが大分ある」と、宮崎吾朗監督は言います。
また、次のようにもコメントしています。
「今の若者の気分で言えば、もうこれ以上は我慢できないという感覚だと思うんです。」
「アレン本人も、何でそうしたかは理屈ではわからないと思う。」
アレンの父殺しの明確な動機を、劇中に求めてもなかなか出てこないのは、仕方ない事なのかもしれません。
アレンにはテルーが必要だった!同じ高さにいる反対側の存在がテルーだった
ジブリ作品には、1組の少年少女が登場します。映画「ゲド戦記」もその例に漏れません。アレンとテルーが、本作の中心人物です。
テルーは、原作では第4巻に登場します。テルーが映画「ゲド戦記」に不可欠だった理由を、宮崎吾朗監督は、次のように述べています。
「アレンが父親を殺してゲドと出会い、ある地点にたどり着いたはいいけれども、その先をどうするのか。現代の青年のような少年アレンは、いったい何によって自分のバランスを回復するんだろうというのがなかなか見えなかった。ゲドのようなおじさんに諭されて、納得して何とか回復していくということではないと思ったし。」
「ゲドのように上の存在ではなく、同じ高さにいるけれども反対側の存在であるテルー。ああいう人にひっぱたかれないと目が覚めない気がしたんです。」
ジブリ作品「ゲド戦記」では、アレンは、テルーから真の名を呼ばれ、「そうして命はずっと続いていくんだよ」という言葉を聞かされ、心に光を取り戻します。
当初はアレンが父に殺されそうになった⁉︎息子の方が現代的にリアル?
アレンと対照的な存在として、映画で主要な位置を与えられたテルーは、親から殺されそうになった少女です。それと同じ構図で、当初は、アレンも頭がおかしくなった父親に殺されそうになって、国を飛び出すというシノプシスがあったとされています。
しかし、プロデューサーに、「今の時代を考えると、息子が父を刺す方がリアルだ」と提案され、宮崎吾朗監督が取り入れたと言われています。
アレンの父殺しの理由は、劇中はっきりと説明されません。宮崎吾朗監督は、インタビューに答えて、次のように述べています。
「アレンは父を憎んでいたわけではなく、たぶん尊敬しており好きでもあったが、自分が陥っていた閉塞感やがんじがらめな気分を抑えきれなくなり暴走し、彼を取り巻く世界、社会の『象徴』である父親に抑えきれなくなった感情の矛先が向かった」
都市伝説では、アレンの父殺しは、宮崎吾朗監督の深層心理が反映されたものとされています。
しかし、宮崎吾朗監督は、「父さえいなければ、生きられると思った。」というキャッチコピーに対しても、自分の事ではないと、否定しています。
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