映画のぼうの城は実話だった?成田長親とはどんな人物だったのか!?

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映画「のぼうの城」は、でくの坊と見なされつつも、農民たちに異常なほど人気がある成田長親を主人公とする物語です。
成田長親が撃たれたことに怒った農民たちが、石田堤を壊してしまったことで、石田三成の水攻めは失敗するというのが、「のぼうの城」のあらすじです。
成田長親とはどんな人物だったのでしょうか?

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映画「のぼうの城」は実話だった!?水攻めに至る過程は?

忍城(おしじょう)水攻めは、日本三大水攻めの一つに数えられています。
『成田記』や『関八州古戦録』には、石田三成が水攻めにしようと考えついたと記されています。
しかし、実際には石田三成は水攻めに批判的であったことが、当時の書状によって明らかにされています。

忍城の水攻めを主導したのは豊臣秀吉でした。
石田三成は、具体的な戦術について浅野長政の指示をたびたび仰いでいました。
忍城を中心に南方に半円形の堤防を築くことが決まりました。

近辺の農民たちに米と銭を与えて昼夜を問わず工事を行い、4~5日で堤防を築きました。
全長28キロメートルにもなる石田堤です。
利根川の水を利用した水攻めが始まり、忍城は浮いているかのような外観を呈し、「忍の浮き城」と呼ばれました。

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映画「のぼうの城」は実話じゃなかった!?石田堤を壊したのは誰だったのか?

映画「のぼうの城」では、水攻めに対して成田長親が敵兵の前で田楽踊りを披露するという策を練ります。
忍城を囲む湖に船を出し、田楽踊りを踊る成田長親を、石田三成の指示で雑賀衆(さいかしゅう)が狙撃します。
成田長親を「のぼう様」と呼んで慕う農民たちが怒って、石田堤を壊し、水攻めは失敗に終わるというのが、映画「のぼうの城」が描くストーリーです。

史実は、石田堤が壊された状況が異なります。
豪雨の影響で本丸が水没しそうになったため、下忍口を守備していた本庄泰展が堤を破壊することを考えます。
本庄泰展は、配下の脇本利助と坂本兵衛を石田堤に向かわせます。

脇本利助と坂本兵衛は、夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊しました。
これによって大雨で溜まりに溜まっていた水が溢れ出しました。
豊臣軍約270人が死亡しています。

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映画「のぼうの城」はやっぱり実話だった!?成田長親はどんな人物だったのか?

映画「のぼうの城」の主人公である成田長親は、成田泰季の子として1545年に生まれました。
特に武勇に秀でていたわけでもなく、政治力も統率力もこれといった実績をあげていない「凡人」だったとされています。
この点は、「のぼうの城」は実話に基づいています。

成田長親が45歳だった1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まりました。
城主の成田氏長が小田原城籠城に備えたため、成田氏の本拠地である忍城は、成田泰季が城代として指揮を執ることになりました。
しかし、成田泰季はすでに老齢で病に臥せっていたとされ、忍城が豊臣軍に包囲された前後に亡くなったと言われています。

そのため、忍城の城主という役目は、成田長親に巡ってきました。
成田長親は籠城を続け、北条氏の本城・小田原城が開城した後も、籠城を続けました。
石田三成からの降伏を勧める使者に対しても、「われら、餓死するより戦死を望む者」と言い放って抵抗したと言います。
忍城が開城したのは、当主である成田氏長の説得によるものでした。

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