関ヶ原の戦いは無かったのか!?本当の真実と知ると怖い話

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関ヶ原の戦いは、映画やドラマでもよく描かれ、「天下分け目の戦い」として広く知られています。

しかし、近年では、関ヶ原の戦いの虚構性が指摘されるようになりました。
当時の人が残した手紙や日記などの一次史料を検討して、「関ヶ原の戦いは無かった」とする説もあります。

関ヶ原の戦いは無かったのでしょうか?
知ると怖い真実の話をご紹介します。

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関ヶ原の戦いは無かった!?一次史料には有名なエピソードが見当たらない

「関ヶ原の戦いは無かった」とする説の根拠のうち、研究者が最も注目しているのが、当時来日していた「キリスト教宣教師の記録」です。
キリスト教宣教師は、外国人であるため、第三者的な立場から日本国内での出来事を見聞きしていました。
宣教師たちは、文化人や庶民はもとより、大名や貴族とも親しく交わっていました。
交友関係の広さに加え、残した情報が詳細であることから、研究者たちが注目しています。

キリスト教宣教師の記録には、いわゆる関ヶ原の戦いは確認できません。
戦いがこの頃にあったのは事実ですが、関ヶ原の戦いのエピソードとして知られるものの多くは、一次史料から確認できないものが多くあります。
近年の研究では、広く知られている「関ヶ原の戦い」は、江戸時代以降に作り上げられたフィクションと考えられています。

映画やドラマによく描かれるのは、三成打倒で結束した「小山評定(おやまひょうじょう)」、西軍必勝の鶴翼(かくよく)の布陣、家康の問(とい)鉄砲に裏切りを決断する小早川秀秋などです。
このようなエピソードは、近年の研究でことごとく史実ではないとされています。
「関ヶ原の戦いは無かった」とする説は、一次史料に基づく本当の真実です。

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関ヶ原の戦いは三成による謀反ではなかった!小山評定は開かれていなかった!?

関ヶ原の戦いは三成による謀反であるというのが、よく知られたストーリーです。
秀吉の死後、政治の主導権をめぐり、三成は家康に失脚させられました。
三成は、復権を企て、家康を亡き者にしようと、豊臣恩顧の大名を召集します。

従来の歴史認識は、関ヶ原の戦いを「家康vs三成の一騎打ち」という図式としています。

しかし、当時、家康に敵対したのは、三成だけではありませんでした。
三成以外の奉行、前田玄以・増田長盛・長束正家も、三成側でした。

また、毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の「三大老」も三成の側にありました。

正義の側を示す「公儀(こうぎ)」は、三成の側にあったとするのが、近年の歴史認識です。
三成の謀反を報じて、これを制圧すべく開かれた軍議が小山評定です。
しかし、小山評定が開かれた根拠を示す、家康や諸大名の書状は、一通も見つかっていません。

福島正則にいたっては、小山には不在だったことが分かっています。

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反逆者は家康の方だった!ウソはどのようにして作られたのか!?

最新の研究では、反逆者は家康の方だったとされています。
秀吉の死後、家康は大老の地位にありながら、豊臣家のルールを守らず、勝手な行為を繰り返していました。
そのため、他の大老と奉行が結託し、政権から家康を排除しようと企てたというのが、今日の歴史認識です。

公儀の立場から逆賊に指定されたのは、三成ではなくて家康でした。
三成らは、九州・西国・北国から軍勢を集めました。
三成たちの計画は、景勝が東北の諸大名を指揮して、関東の家康を包囲殲滅するというものでした。

しかし、実際は足並みがそろわず、関ヶ原で敗北しました。

天下を取った家康は、豊臣公儀の逆賊となった事実を隠蔽するため、三成を逆賊に仕立て上げました。
家康を公儀の側へとすり替えた話は、江戸幕府による大名御家人の家譜(かふ)編纂の過程で広まっていきました。

さらに、軍記物が演出要素を加えて、よく知られた関ヶ原の戦いのエピソードが定着していったと考えられています。

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