【忍びの国】モデルになった天正伊賀の乱とはどんな戦!?伊賀の忍者達の結末は?

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『忍びの国』は、和田竜さんによる歴史小説で、2017年に嵐の大野智さん主演で映画化されました。
和田竜さんは、『忍びの国』を執筆するにあたって、天正伊賀の乱を伊賀側の視点で記述された史料を参考にしたと言います。
『忍びの国』のモデルになった、天正伊賀の乱とはどんな戦だったのでしょうか?

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織田信雄が伊賀国の領国化を狙ったことが始まり!伊賀衆の総攻撃で織田方は敗走

天正伊賀の乱とは、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いを言います。
戦いは第一次と第二次に分けられます。
第一次は天正6年(1578年)から天正7年(1579年)、第二次は天正9年(1581年)の戦いです。

第一次天正伊賀の乱は、織田信長の次男織田信雄(おだ・のぶかつ)が、伊勢国を掌握した後、伊賀国の領国化を狙ったことから始まりました。
天正6年(1578年)2月、伊賀国の郷士の下山平兵衛が、信雄を訪れて伊賀国への手引きを申し出ます。
信雄は、翌3月に伊賀盆地の中央にある丸山城の修築を命じます。

伊賀郷士衆は、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがいました。
規模壮大な城が築かれていくのを知った伊賀郷士衆は、すぐさま集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決しました。
同年10月25日、忍者たちが総攻撃を開始し、織田方は伊勢国に敗走しました。

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信雄の敗戦に信長が激怒!信長は忍者に対して警戒心を抱く

翌天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に無断で、8000の兵を率いて伊賀国に侵攻しました。

しかし、伊賀衆のかく乱作戦や奇襲に遭い、2~3日で伊勢へ敗走します。
この時、殿を務めていた柘植保重(つげ・やすしげ)を討たれてしまいます。
信雄の敗走をもって第一次天正伊賀の乱は終わりました。

敗戦を知った信長は激怒し、信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたと言います。
信長はこの頃、石山本願寺との抗争に手を取られ、伊賀国平定を後回しにせざるを得ませんでした。

しかし、信雄を敗戦を受け、忍者に対して警戒心を抱くようになります。

天正9年(1581年)4月、安土城の信長のもとを訪れ、伊賀攻略の際に道案内をすると申し出た者がいました。
上柘植の福地伊予守宗隆と河合村の耳須弥次郎具明です。
同年9月に織田軍は、再び信雄を総大将に5万人の兵で伊賀国に侵攻しました。

伊賀衆は、比自山城に3500人、平楽寺に1500人で籠城しました。
伊賀衆は、河原や比自山の裾野で野宿していた氏郷隊に夜襲をかけました。

また、筒井順慶隊にも夜襲をかけて1000兵を討ち取りました。
怒った氏郷が平楽寺を攻撃し、一旦は退けられるものの、遂には陥落させます。

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伊賀衆は織田方の調略を受けていた!柏原城の開城後に指揮官たちは×××していた!?

比自山城は、丹波長秀らが繰り返し攻略しようとしましたが、その都度敗退し、伊賀衆が城を守り通しました。
この時活躍した伊賀衆を「比自山の七本槍」と言います。
全ての城兵は、総攻撃の前日に柏原城に逃れました。

伊賀衆は、織田方の調略を受け、連携を欠いていました。
次第に内応者が出て、織田軍は各地で進撃を続けました。
伊賀全体で9万人の人口のうち、非戦闘員を含む3万人あまりが殺害されました。
伊賀国がほぼ制圧されたのは、同年9月11日です。

奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入りました。
9月28日、伊賀十二人衆の一人滝野吉政(たきの・よしまさ)が惣名代として信雄に会い、柏原城を開けました。
柏原城の開城をもって天正伊賀の乱は終わりを告げました。
残党は捕縛され殺されましたが、多くの指揮官は他国へ逃れ、ほとぼりが冷めた頃に帰国しています。

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