【いだてん】嘉納治五郎の経歴!オリンピックの父と呼ばれる所以と柔道の創始者について

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いだてん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

嘉納治五郎(かのう・じごろう)は柔道の創始者として知られています。
そのイメージが2019年大河ドラマ『いだてん』で一変されるかもしれません。
嘉納治五郎の経歴をまとめてみました。

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喧嘩に弱くて柔術を習った!講道館道場を開く

嘉納治五郎は、1860年12月10日、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)に生まれました。
嘉納家は御影において屈指の名家で、治五郎は三男として生まれました。
1870年、明治政府に招聘された父に連れられて上京した治五郎は、東京で書道、漢学、英語を学び、その後、育英義塾に入塾しました。

嘉納治五郎は、学業優秀ながら喧嘩に弱く、その事を気にしていました。
腕力でかなわぬ相手を投げ飛ばせるのが柔術だと聞き知った治五郎は、柔術を習おうとします。
天神真楊流柔術の福田八之助に弟子入りして柔術を習い始めたのは、1978年でした。
1879年7月には、来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に披露する柔術演武に参加しています。

嘉納治五郎は、柔術を学ぶことで短気が直され、穏やかで我慢強い性格になっていきました。

治五郎は柔術を「柔道」と改め、全く新しい武術を始めることにしました。
1882年、嘉納治五郎は下谷北稲荷永昌寺に「講道館」という名の道場を開きます。
講道館道場は、1886年の警視庁の武術大会を制覇して、警視庁に採用されることになります。

→NHK大河ドラマいだてんは実話それともフィクション!?時代のまとめ

オリンピックの理念に共感!日本人初のIOC委員に就任する

嘉納治五郎は、教育者としての経歴も長い人物です。
1882年1月から学習院教頭を務め、1893年より通算25年ほど東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長を務めています。
また、柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現在の灘中学校・高等学校)の設立にも関わっています。

「精力善用」「自他共栄」の教えは、戦争が絶えない世の中にあって、世界に誇れる立派な日本人を育て、世界平和を実現したいという嘉納治五郎の願いの表れでした。
その思いと合致したのがクーベルタンのオリンピックの精神でした。
クーベルタンは、スポーツを通じて肉体と精神のバランスの取れた人間を育てることを大切にしていました。

嘉納治五郎は、駐日フランス大使ジェラールから、「人種や宗教などの壁を乗り越え相互理解を深めることが世界平和につながる」というオリンピック理念を聞きます。
1909年、国際オリンピック委員会(IOC)委員に嘉納治五郎は日本人として初めて就任します。
その後、嘉納治五郎はオリンピック・ムーブメントに積極的に関わっていきます。

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→【いだてん】東龍太郎都知事の経歴や実績!オリンピック知事の史実に迫る

オリンピックの父と呼ばれる所以は?IOC総会で渾身の演説をする

嘉納治五郎は、1912年の第5回オリンピック競技大会に日本選手を参加させる準備を行いました。
このとき選ばれたのが、短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三です。
東京高等師範学校の生徒だった金栗四三には、ストックホルムまで渡航する経済的な余裕はありませんでした。
嘉納治五郎は、東京高等師範学校で金栗の後援会を結成し、募金を呼びかけて資金を工面しています。

これ以降、嘉納治五郎はほとんど全てのIOC会議やオリンピック競技大会に出席しています。
そして、オリンピック競技大会終了後には、各国のIOC委員を訪問し、その国の体育やスポーツ事情を見聞する一方、柔道を紹介しています。

嘉納治五郎の経歴の中でも、活発な活動が行われたのが1940年の第12回オリンピック競技大会の東京への招致です。
招致のための活動は、1931年に東京市会が開催要望を決議してから始められました。

1933年11月には、嘉納治五郎はウィーンで行われたIOC会議に出席し、東京開催の場合の組織、競技場、経費について報告しています。
1936年7月、嘉納治五郎はIOC総会で次のように述べています。

「自分は重大な覚悟を持った。オリンピックは当然日本に来るべきなのに、もし来ないのであれば、正当な理由が退けられたことになる。」

嘉納治五郎は、このIOC総会で1940年の東京オリンピック招致に成功しています。

→【いだてん】三島弥彦の史実!日本初のオリンピック代表選手の実力は?

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