【いだてん】金栗四三の史実!箱根駅伝を創った男はどんな生涯を歩んだのか!?

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いだてん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)

2019年のNHK大河ドラマの主役に選ばれたのが金栗四三(かなくり・しそう)です。
金栗四三は、箱根駅伝の創設に尽力して「日本マラソンの父」と呼ばれた人物です。
その生涯をまとめてみました。

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ストックホルム・オリンピックに出場するものの残念な結果だった

金栗四三は、1891年(明治24年)8月20日、熊本県に生まれました。
旧制玉名中学を卒業後、1910年(明治43年)に東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学します。

1911年(明治44年)には、ストックホルム・オリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、日本人初のオリンピック選手となります。

しかし、1912年(明治45年)のストックホルム・オリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱されます。
金栗四三が目を覚ましたのは翌日の朝で、すでに競技は終わっていました。
そのため、金栗四三はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国しました。

金栗四三は、ストックホルムでの雪辱を果たすため、ベルリン・オリンピックに向けて厳しいトレーニングを積みました。

しかし、ベルリン・オリンピックは、第一次世界大戦の影響で中止となってしまいます。
金栗四三は、東京高等師範学校の研究科を卒業すると、神奈川師範学校に赴任し、マラソンの練習をしながら、マラソン選手の育成やマラソンの普及にあたることになりました。

→【いだてん】田畑政治の経歴!東京オリンピックと関係の深い男の史実とは!?

マラソンの普及に尽力!東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競争の開催に奔走する

金栗四三は、徴兵検査を受け、「第1乙種」となり、兵役を逃れます。
1917年(大正6年)には、独逸学協会中学に赴任します。
1917年は東京奠都から50年目にあたり、その記念博覧会の協賛事業として、読売新聞の記者がリレー式のマラソンを思いつきます。

その相談を受けた金栗四三は大会開催に奔走し、1917年4月27日から29日までの3日間にわたり、読売新聞の主宰で「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が開催されました。
「駅伝」と命名したのは、神宮皇学館の館長・武田千代三郎です。
この「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」が後の箱根駅伝へとつながります。

また、金栗四三は1917年に富士登山マラソンを復活させています。
金栗四三は、富士山に登ったときの空気の薄くなる状態がマラソンに似ていると考えていました。

その頃、金栗四三が改良を続けていたのがマラソン足袋でした。
1919年(大正8年)、甲の部分を紐で結び、足袋の底にゴム底を縫い付けた「金栗足袋」が発売されます。

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箱根駅伝が開催される!アメリカ大陸横断駅伝の予選だった!?

1919年10月、金栗四三は沢田栄一、野口源三郎とともに「アメリカ大陸横断駅伝」の構想を練ります。
駅伝という形式にしたのは、金栗四三が一度に多くのマラソン選手を育てるには駅伝で競わせるのが一番だと考えていたためです。
金栗四三たちは、アメリカ大陸横断駅伝の予選を開催するため、各学校に予選への参加を呼びかけました。

参加を表明したのは、早稲田大学、慶應大学、明治大学、東京高等師範学校の4校でした。

コースの候補に挙がったのは、「日光ー東京」「水戸ー東京」「箱根ー東京」でした。
「日光ー東京」は道が平坦で却下、「水戸ー東京」は交通が不便なので却下となりました。
箱根をロッキー山脈に見立てて、「箱根ー東京」が駅伝のコースに選ばれました。

開催時期は、金栗四三が「鍛錬には極寒か猛暑がよい」と主張し、2月に決まりました。
1920年(大正9年)2月14日に第1回箱根駅伝が開催されました。

第1回箱根駅伝は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選として開催されましたが、「アメリカ大陸横断駅伝」については報知新聞から無謀だと諭され、箱根駅伝だけが現在まで続いています。

→【いだてん】東龍太郎都知事の経歴や実績!オリンピック知事の史実に迫る

オリンピックに3度出場!結果は×××だった

1920年4月、金栗四三はアントワープ・オリンピックへの日本代表となりました。
金栗四三は、5位まで順位を上げていましたが、足を痛めたため、歩いてゴールにたどり着き、記録は2時間48分45秒で16位に終わりました。

この時の敗因は寝不足だったと言われています。

その後、日本代表はいくつかのグループに分かれてヨーロッパを視察しました。
金栗四三はドイツを視察し、ドイツで多くの女性がスポーツをしているのを見て驚きます。
帰国後、金栗四三は東京女子師範学校に就職しました。

そして、女子の体育に力を入れます。

1923年(大正12年)、東京女子師範学校を中心に関東女子体育連盟が結成されます。
1924年(大正13年)5月にはパリ・オリンピックの予選が開催され、優勝した金栗四三は3度目の日本代表に選ばれます。

しかし、パリ・オリンピックでは32.3キロ付近で意識を失って倒れ、ストックホルムの悪夢の再現となってしまいます。この後、金栗四三は第一線を退きました。

→【いだてん】三島弥彦の史実!日本初のオリンピック代表選手の実力は?

東京オリンピックの準備に奔走!戦後もマラソンの普及活動に務めた

1931年(昭和6年)、金栗四三は東京女子師範学校を辞めて熊本へと帰りました。
1931年の7月には九州一周マラソンを成し遂げます。
この年、日本は東京オリンピックの誘致を決定し、1936年(昭和11年)に東京オリンピックの開催を勝ち取ります。

金栗四三は、恩師である嘉納治五郎からの要請を受け、妻子を伴って上京し、東京オリンピックの準備や選手の育成に奔走します。

しかし、日中戦争をきっかけにして、日本政府は1938年(昭和13年)7月に東京オリンピックの開催中止を決定します。
その後、戦況が悪化し、金栗四三は1945年(昭和20年)3月に熊本へ疎開しました。

戦後、金栗四三はマラソンの普及活動に務め、1946年(昭和21年)11月3日には「第1回・県民体育祭」を開催しています。

1947年(昭和22年)には箱根駅伝が復活しました。
1967年(昭和42年)には、スウェーデンのオリンピック委員会からの招待を受け、ストックホルム・オリンピックを完走しています。金栗四三が77歳の時のことです。

金栗四三は1983年(昭和58年)11月13日に肺炎で死去しました。享年93。
従五位銀杯が下賜されました。

生涯の走行距離は25万キロ(地球6周)と言われています。

→NHK大河ドラマいだてんは実話それともフィクション!?時代のまとめ

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