鳥井信治郎の生涯!やってみなはれ精神で琥珀の夢のモデルにもなったサントリー創業者はどんな人!?

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鳥井信治郎モデルの琥珀の夢を読む

2018年は明治元年から150年となる節目の年です。
明治時代に活躍した起業家の1人に鳥井信治郎(とりい・しんじろう)がいます。

鳥井信治郎はサントリーの創業者で、その生涯は伊集院静(いじゅういん・しずか)さんによる伝記小説『琥珀(こはく)の夢 小説鳥井信治郎』に紹介されています。
鳥井信治郎とはどんな生涯を送った人なのでしょうか?

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ワインの美味しさを日本で広めたい

鳥井信治郎は、1878年(明治11年)に生まれ、大阪市東区釣鐘町の両替商の次男として育ちました。実家はその後、米屋に転業しています。
信治郎は、13歳になると実家を出て、薬種問屋小西儀助商店で奉公するようになります。
ここでの調合経験が、のちの酒類製造に役立ったと言われています。

信治郎は、1899年(明治22年)、20歳の時に独立して「鳥井商店」を開業しました。
自分で事業を始めた信治郎は、葡萄酒の輸入販売を始めます。
かつてスペイン人の家でワインを振舞われ、その美味しさが心に残っていたためです。

しかし、輸入したワインは日本人の味覚に合わず、売れ行きは芳しくありませんでした。

そんな折、かつてワインをご馳走してくれたスペイン人から、甘いポートワインを振舞われました。
この甘いワインに活路を見出した信治郎は、日本人の口に合うポートワインの製造に乗り出します。
1906年(明治39年)に屋号を「寿屋洋酒店」に改めます。

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赤玉ポートワインを作る!宣伝活動にも工夫を凝らした

信治郎は試行錯誤を繰り返しました。
スペイン産ワインをベースにしたワインが完成し、販売を開始したのは1907年(明治40年)4月1日のことでした。
完成したワインは、「赤玉ポートワイン」と名付けられました。
「赤玉」とは、日の丸であり、太陽であり、ワインの美しい赤でもあります。

信治郎は、宣伝にも工夫を凝らしました。
新聞への広告掲載、景品の配布、揃いの法被を着た販売員など。
当時、酒類では珍しいキャンペーンでした。

赤玉ポートワインは、当時米4升分ほどの値段で、かなり高価な品でした。

しかし、珍しさも手伝って売れに売れました。
売り上げの増加に伴い、1921年(大正10年)には寿屋を株式会社化しています。

赤玉ポートワインのポスターも作られました。
松島栄美子を起用したヌードポスターは、デコルテを全開にした松島が赤く光るワインを手に静かに微笑むもので、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。
赤玉ポートワインの知名度は一気に上昇しました。
大正後期には赤玉ポートワインは、国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長しています。

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ウイスキー作りに挑戦!一度は失敗するものの売れる品を完成させる

赤玉ポートワインで日本でのワイン生産に成功した信治郎は、次にウイスキー生産を試みました。
1923年(大正12年)、スコットランドでウイスキーの蒸留を学んだ竹鶴政孝を呼び寄せます。
竹鶴政孝は、『マッサン』のモデルになった人物です。
信治郎は、「消費者が見学できる場所を」との思いから大阪府島本村山崎に山崎蒸留所を建てます。

1929年(昭和4年)、国産ウイスキー第1号「サントリー白札」(現在のサントリーホワイト)が発売されます。

しかし、ピート臭(煙臭さ)が強く、日本人には受け入れられず、返品が相次ぎました。
失敗の中で、スコッチにこだわった竹鶴と信治郎との考え方のズレが次第に明らかになりました。

竹鶴は、1934年(昭和9年)に寿屋を辞し、北海道へと去りました。
竹鶴の旅立ちを、信治郎は「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」とあたたかく見送ったと言います。
ウイスキー作りは、その後、信治郎の長男・吉太郎を中心に据えて進められました。
1937年(昭和12年)、のちに「角瓶」と呼ばれる「サントリーウヰスキー12年」を発売します。
このウイスキーは、戦時体制下で輸入が禁じられたことも相まって、順調に売れ行きを伸ばしました。

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長男と本社社屋を失いつつもウイスキー作りを諦めなかった

1940年(昭和15年)には「オールド」を完成させます。
この年に、信治郎は長男の吉太郎を失っています。
吉太郎はまだ33歳の若さでした。
信治郎は「片腕をもがれた」と嘆きました。

また、空襲で本社社屋なども失いますが、山崎工場の原酒は戦火を逃れました。
戦後、信治郎は、進駐軍に酒類を販売しながら、「大阪の鼻」と呼ばれた自らの手でウイスキーの製造を再開させます。

1960年(昭和35年)、初代マスターブレンダーとなった信治郎の手で、「サントリーローヤル」が完成します。

「サントリーローヤル」の発売の2年後の1962年(昭和37年)、信治郎は「やってみなはれ」と挑戦を後押しし続けた生涯に幕を下ろしました。
83歳でした。

「やってみなはれ」の精神を受け継いだのは、次男の敬三でした。
敬三は、1963年(昭和38年)のビール発売を機に、社名を「サントリー」に変更しました。
「サントリー」は、「sun(太陽)」「鳥井」を合わせたもので、太陽はかつての寿屋の象徴である赤玉です。

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