こうの史代原作「この世界の片隅に」が「日曜劇場」枠で2018年7月期にテレビドラマ化されますね。
原作は、2017年12月時点での累計発行部数が115万部を突破した話題作です。
また、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、韓国語、中国語、ベトナム語に翻訳されています。「この世界の片隅に」は実話でしょうか?
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「この世界の片隅に」は亡き祖母への思いから描かれた
こうの史代原作「この世界の片隅に」は、戦時中の広島と呉を舞台にした物語です。
呉は、「東洋一」と言われる軍港があり、戦時中に何度も激しい空襲に襲われます。
「この世界の片隅に」は、ひとりの女性とその家族のささやかな生活が、戦火に飲み込まれていく様が描かれています。
原作者のこうの史代さんは、広島出身の漫画家で、被爆者の戦後の人生を描いた作品で高い評価を得てきました。
「この世界の片隅に」は、こうの史代さんが戦時中を初めて描いた作品です。
戦時中の呉を描くきっかけとなったのは、亡き祖母への思いだったと言います。
こうの史代さんの祖母は、呉に住み、戦火を生き抜きました。
こうの史代さんは、「祖母からは、ちょっとだけ呉戦災の話は聞いたことがあった。でも私は、あまりそれをまじめに聞いてこなかった。」と言います。
こうの史代さんの祖母は他界しました。
こうの史代さんは、「そこらへんの後悔の念はあった。」とし、「話をできなくなってしまった人々と、描くことで対話をしているような、そういう人たちのことを追いかけるように丁寧に描ければいいな」と思って、本作に取り組んだそうです。
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戦時中の庶民の暮らしを正確に描いた作品!原作者と監督の調査が徹底している
こうの史代さんは、戦時中の庶民の暮らしを正確に描くために、国会図書館や郷土資料館で、当時の雑誌や新聞を集めました。
そして、家事の道具や服装の材質まで細かく調べました。
徹底した調査によって、実話と感じられる作品に仕上がっています。
こうの史代さんが特に関心を寄せたのが、当時、お米を節約するために作られていた料理「楠公飯(なんこうめし)」でした。
「楠公飯」は、玄米にたっぷり水を吸わせて炊くことで、ご飯の量が増えたように感じると言います。
「この世界の片隅に」で、主人公のすずが「楠公飯」を炊いています。
「今朝はえろうご飯が多いのう、飯粒がふくらんでおる」と、家族は喜んでいます。
「この世界の片隅に」のもう一つの特徴は、広島と呉の町並みが忠実に再現されていることです。その再現に尽力したのが、監督の片渕須直さんです。
片渕須直さんは、映画化にあたって、何度も広島に足を運び、調査を続けました。
片渕須直さんの熱意に動かされて、広島では市民が「映画を支援する会」を発足させ、戦争体験者たちが町の再現に協力しました。
原爆でほとんど消えてしまった広島中心部の町並みを撮影した写真を、提供した人もいました。
戦争体験者たちの話を聞いた片渕須直さんは、「“そこにいた人の気持ちがわかる”と思ってもらえるものを画面に描こうと思った」と語っています。
その結果、実話と感じられる作品になりました。
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昭和19年とはどんな年⁉︎径子も体験した建物疎開とは?
「この世界の片隅に」のストーリー本編は、昭和18年12月にすずが周作と出会い、昭和19年2月に2人が祝言を挙げるところから始まります。
昭和19年頃は、物資が不足し、配給も乏しくなっていました。
昭和19年8月1日には、家庭用の砂糖の配給が停止になっています。
また、11月1日には、タバコは成人男子1日6本の割当とされています。
建物疎開が始まったのも昭和19年でした。
1月26日に内務省が、改正防空法による初の建物疎開を東京と名古屋に命じています。
周作の姉の径子も建物疎開によって嫁ぎ先の黒村家が下関に引っ越すのを機に離縁して、実家に戻ってきていますね。
建物疎開とは、空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯を設けるために建物を撤去することです。
建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に、付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的でした。
瓦礫の撤去に携わったのは、主に12~14歳の生徒、女性、病気などで徴兵対象から除外されていた男性などでした。
広島へ原爆が投下された当時も、広島市内では数千人の人々が屋外で建物疎開の作業に従事しており、炸裂した原爆による被害を受けることになりました。
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