「火垂るの墓」の設定で、不思議がられる事の一つが、清太が母から託された貯金を7000円持っていたのに、悲惨な結末が避けられなかった事です。
貯金7000円は、現在では幾ら位なのでしょうか?
スポンサーリンク
7000円の価値は昭和20年8月前と後とで大きく変化した
昭和20年の終戦前の7000円は、現在なら1328万円程度と計算されています。
「火垂るの墓」の清太のような子供が扱うには、高額すぎるほどの大金です。
それだけの貯金があって、どうして満足な食事ができなかったのでしょうか?
昭和20年の戦後の物価を見てみましょう。
参考になるのが、NHKの朝ドラ「ごちそうさん」です。
「ごちそうさん」の第136回にめ以子がお米を買うシーンがありました。
3俵(60キロ × 3)の価格は4500円。
昭和20年は戦前戦後ではインフレ率が高く、終戦後の4500円は、現在の250万円程度になるとされています。
その割合で計算すると、7000円は389万円に急落してしまっています。
一方、物価は高騰しています。
たとえば、大工の手間代1日分は、昭和20年8月以前は3円90銭でしたが、同年8月以降はなんと100円に上がっています。
食料品や日用品が手に入らない!配給制度って何⁉︎
物価が上がっただけでなく、食料品や生活必需品が簡単に手に入らないという事情がありました。
市場で物が自由に手に入れられないという状況になったのは、昭和12年7月以降です。
日中戦争が始まり、重要資源に乏しい日本は、優先的に軍事物資に予算を割り当てるために、政府が消費に対して統制を行うようになりました。
配給切符や通帳を持たないと、食料品や生活必需品を購入できなくなりました。
昭和14年9月には、商品の一つ一つに「公定価格」を設定し、販売者が自由に価格を決められないようにしました。
昭和15年6月には、東京、大阪、横浜、名古屋、京都、神戸の6大都市で、砂糖とマッチの切符配給制が実験的に実施されます。
これは、切符を提示した人にだけ物品を販売するというものです。
同年11月には、全国で実施されるようになりました。
品目は次々に増え、米などの主要な食料、衣類、木炭などの日用品にも及びました。
戦争が激化するにつれて、計画的に配給されなくなり、配給切符や通帳があっても、配給所には品物が無いという事態が起きるようになりました。
空襲が本格化した頃には、混乱に拍車がかかり、食糧の配給状況は悪化の一途を辿りました。
スポンサーリンク
→火垂るの墓の都市伝説!節子の本当の死因と清太はなぜ死んだのか?
終戦直後の食糧事情!闇市の値段は法外だった
戦争が終わると、空襲におびえる事はなくなりましたが、物資は不足したままでした。
食料品や生活必需品は、引き続き配給制が取られました。
しかし、遅配や欠配が続きました。
しかも、昭和20年は36年ぶりの未曾有の大凶作の年でした。
昭和20年の農作物の生産高は前年比35%減となっていました。
朝鮮や台湾からの食糧もストップしました。
600万人もの引揚者が帰国し、食糧事情はますます悪化しました。
正規の配給量だけではとても足りず、都市部の人たちは農村部に買い出しに行きました。
衣類は物々交換の際に食糧と交換されました。
浮浪者は、住民票が無いため、食料の配給も受けられませんでした。
配給以外の方法で食料品や日用品を手に入れる、唯一の方法が闇市でした。
終戦の4日後の昭和20年8月20日、新宿駅東口に開店した露天市が闇市の第1号です。
闇市の様子は、朝ドラの「梅ちゃん先生」「ごちそうさん」「とと姉ちゃん」「べっぴんさん」で描かれています。
闇市では、配給切符が無ければ手に入らない統制物資を買う事ができました。
ただし、値段は法外でした。闇市の値段は、公定価格の数十倍が相場でした。
米や砂糖の値段は、公定価格の100倍以上でした。
幼い子供2人で家を出てしまった時、たとえ7000円の貯金があっても、食料品は満足に手に入れられないのが実情でした。
「火垂るの墓」の清太と節子が栄養失調で死に至ったのは、当時の状況としては自然な設定だったわけです。
スポンサーリンク